信仰の対象は人ではなく法則であるべき理由

カルト宗教の多くは、その宗教の教祖への絶対的な信仰へと誘導します。別な言葉で言えば、教祖への個人崇拝へと導くものが、カルト宗教なのです。

僕が二十代の頃に信仰していた統一協会では、毎週日曜日早朝に、参拝敬礼式というのを行っていました。教祖夫婦の写真を正面に置き、それに向かって土下座をして礼拝するのです。兄弟(信仰仲間のことをこう呼んでいました)の一人は、参拝敬礼式に出席した数で、霊界での地位が決まると言っていました。

また、僕が30代から50代まで在籍していた幸福の科学では、教祖大川隆法の写真が、御本尊として拝まれていました。今では、写真ではなく、法輪や、あるいは教祖を模した象が、御本尊として拝まれています。

信者は教祖には絶対に逆らえない

統一協会も幸福の科学も、共通するのは、個人崇拝の宗教である点です。教祖個人に対する妄信があるので、文鮮明や大川隆法が、どれほど間違ったことを言っても、信者はそれを鵜呑みにして受け入れるしかありません。なぜなら、そうした態度こそが、信仰的とされるからです。

文鮮明はすでに他界し、今はその妻と子供とが互いの正当性を主張して争っています。大川隆法のほうは、まだ生きて発言しているので、その言葉は信者にとっては仏の言葉ということになります。

人が人を隷属させてはいけない

僕自身は、人間が人間を尊敬すること自体は良いと思います。尊敬する人間がいるということは、生きる目標にもなるし、支えにもなるでしょう。

今、NHKで、せごどん、を、やっていますが、西郷が島津斉彬を尊敬する姿は、やや危うさは感じられるものの、美しくもあります。しかし、尊敬をはるかに超えて、人間を崇拝の対象にした場合、そこには、悲劇的なひずみが生じます。

一方、自分への崇拝を仕向けるカルト教祖のほうは、独裁者に似たマインドを持っています。独裁者、つまり金日成やスターリンなどを思い浮かべてもらえればわかりやすいでしょう。彼らの特徴は、自分の像や絵を拝ませる点です。

「宗教団体という衣をまとった独裁コミュニティ」がカルト宗教である、と考えるとわかりやすいかもしれません。いずれにせよ、完全ではあり得ない人間を崇拝の対象にしている点で、カルト宗教は健全とは程遠いのです。

一人の人間として生きることの尊さ

僕たちが信頼を寄せるべきは、宇宙にあまねく充満している法則です。それを宇宙法則と言ってもよいし、神の法則と言っても、因果の理法と言ってもいいでしょう。

法則であれば、人を差別することがありません。誰に対しても、作用に対して反作用として働くからです。これを、仏陀は、因果の理法と呼びました。この因果の理法にこそ信頼を寄せる信仰であるならば、危険性はありません。

しかし人間信仰は、危険です。なぜなら理性が蹂躙され、その人間に、隷属することになるからです。信者の立場からすれば、その教祖を再臨主、あるいは地球神などと思っているのですから、どんなにその教祖の発言と行動に矛盾を感じることがあっても、従うしかないのです。

そもそも、人はみな等しく、人間であり、不完全であり、だからこそ修行の過程にあるのであり、ともに尊いのです。そんな人間の一人が、自ら神を名乗り、その生き神様に対して、他の人間が平伏する姿を見て、より神(人格神ではない根源的な神)に近い高級霊は、どう思うでしょうか。

シルバーバーチの謙虚さを見てください。あの態度こそが、高級霊の証です。自己主張のかたまりのカルト教祖は、むしろ独裁者に近いマインドを持つ、自我の化け物です。

人間を、崇拝してはいけません。人間は、どこまで行っても所詮人間なのです。人間は尊い存在ではあるけれど、完全ではありません。あのイエスですら、地上にいるときは、一人の人間として生きたではありませんか。

しっかりと目を開いてカルト教祖を観察し、その偽善を見抜く冷静さを持ちましょう。

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