極端な話、明日、死んでしまうかもしれません

禅の言葉に、前後裁断があります。

禅の本髄は、今この時にあり、過去は関係ないとされます。

雲水修行に入るときに、一切の過去を問われないのはそのためだそうです。

ここまでは聞きかじりの知識なので、なるほど、そうかな、とは思うのですが、最近気になるのは、僕も含めて、今このときを生き切っていない人が多すぎるように思うことです。

たとえば、心配。

老後への心配。

老後に必要な貯金は3000万円などという言葉に脅かされて不安になる人々のなんと多いことでしょう。

あるいはまた、目的に縛られ過ぎて、今がおろそかになる人も多いです。

学校教育で、目的を持って生きることはいいことだと教わるし、誰もが疑問を持たずに、それをよしとしているため、付け入るスキがないほど、目標達成は謳歌されています。

でも、果たして本当にそうなのでしょうかね。

目標に向かうための、今が、今日一日が、消化試合なのだとしたら、その毎日は、生き生きとしたものにはなりません。

さらに言えば、その金科玉条とする目標ですら、達成できるかどうかは保証の限りではありませんよ。

極端な話、明日、死んでしまうかもしれません。

ことほど左様に、諸行は無常なのです。

今日の楽しみが明日の苦になり、今日の苦労が明日の喜びになったりします。

世界情勢も、経済状況も、刻一刻と変化しています。

過去現在未来と言いますが、よくよく考えてみれば、常に、今ここにあるのは、現在だけです。

明日を思い煩ったとしても、その明日も自分が生きるときには、現在になります。

大切なのは、思い煩いでもなく目標でもありません。

常に自分の目の前にあり、当の本人の自分自身が生きているところの今現在だけが唯一の実在なのです。

それなのに、目標に縛られて、今をないがしろにしている人が多いのではないでしょうか。

「現在ただ今のこの時」を、目標に到達するまでの通過点ととらえてしまうと、「今この時」の価値を著しく毀損します。

目標を持つことを否定はしませんが、もっと、今、に焦点を当てた生き方のほうが、尊いように思える今日この頃です。

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