すべての人がそれぞれの課題を背負って

僕が利用しているスーパーマーケットの一つに、ライフがあります。そのライフの屋上が駐車場になっていて、買い物をしようと歩き出したのですが、そこである考えが浮かびました。

実はライフがある場所からは、神社が近いのです。今日はお正月の3日。混んだとしても田舎の神社ですから、大したことはないと思い、そのままライフの店内を抜けて外に行きました。

神社の境内で思いがけない人に会う

一昨日の記事で、お正月には神社参拝に行かず、10日前後に行くと書いたのですが、今年は例年とは違い、ふとした気まぐれから神社に向かいました。

その神社は小高い丘の上にあります。車が上っていく道は砂ぼこりが舞い上がっていました。あそこを通るのは埃っぽくていやだなと思い、サイドから上る道を探したところ、ほどなくして見つかりました。

人工的に丸太が置かれた、人がどうにか交換できるくらいの細い道を登り切り、神社の境内に入ったときです。正面にいる人から、声をかけられました。

声をかけてきたのは、数年前まで僕が所属していた宗教団体で知り合ったFさんでした。孫を連れていました。僕が「いくつ?」と話しかけると、手袋越しに指を一本立てて、一歳だという仕草をしました。

利発そうなかわいい男の子でした。2歳になる手前くらいなのでしょう。そのFさんと少し立ち話をし、神社に参拝しました。

今度はKさんに会う

参拝を終え、穏やかな天気の下、ライフへと歩きました。ライフで買い物をし、再び車を停めてある屋上に行ったときに、今度はKさんに会いました。

Kさんも、僕が数年前まで所属していた宗教団体の人です。Kさんは、すでに年金受給者ですが、週に何日か、老人ホームのようなところで働いていると噂では聞いていました。Kさんに新年のあいさつをして、買い物を車に置き、帰宅しました。

人の出会いの不思議さについて

思いがけなく、神社に足を運んだら、Fさんに会っただけでなく、Kさんにも会いました。時間が少しずれていたら会わなかったことを思うと、人が出会うということは不思議なものだと思いました。

宗教団体を離れても、会えば挨拶ができて話が弾むということは、ありがたいことです。まあそれだけ、僕がかつて法友と呼んでいた人たちは、寛容な精神を持ち合わせているということですね。

宗教団体も出会いなら、人生の途上で会う人も出会いです。そのような出会いを重ねながら、人は人生という長い道を歩いているのだと思います。

あるときはともに歩き、あるときは別々に歩いても、大きな目で見れば、すべての人がそれぞれの課題を背負って、修行しているのだと思っています。

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