自分以外に、自分自身を幸せにすることはできない

僕は長らく、他者依存の人生を歩んできました。

その端的な例が、宗教団体です。

生まれたときに、父が世界救世教という宗教の、そこそこ熱心な信者だったために、自然に神様を信じるようになりました。

しかし自我の芽生えとともに、自分なりの考えで真理というものを追求するようになり、複数の宗教団体を渡り歩きました。

何が言いたいのかというと、人であれ、思想であれ、何らかの団体であれ、自分以外の他者が自分を幸せにすることはできない、ということなのです。

よく聴かれるつぶやきに、お金があれば幸せになれる、というのがありますが、まあ確かに瞬間風速的な救済や喜びはあるでしょうが、それは移ろうものです。

良い会社に入っていれば、良い大学を出ていれば、良い伴侶に出会っていれば、などなど、切りがないのですが、これらもすべて他者依存です。

他者依存の最大の悲劇のひとつが、カルト宗教で、これは、カルト教祖とその信者が、互いに依存しあっている関係ですね。

で、何が言いたいのかというと、自分以外に、自分自身を幸せにすることはできないということなのです。

こんな簡単な事実に気づくまでに、僕は50数年かかりました。

ただ、この気づきというのは、たんに本を読んで知識として知っている、というものとは違い、実体験から滲み出たものなので強いのです。

で、その気づきを得てからというもの、悩みは一切なくなりました。偉そうに聞こえるかもしれませんが、本当にそうなのです。

でも、課題は、あります。悩みではなくて、課題です。

僕にとっての悩みの定義は、生木を割かれるような精神状態のこと、です。これを直近で経験したのは、50歳から53歳までの3年間で、長年信仰をしていた幸福の科学という団体をやめるかどうか悶え苦しんでいたときですね。

それは、自分のアイデンティティを依拠している、謂わばレゾンデートルに関わる問題だったからです。

話は変わりますが、僕は、オウム信者の気持ちもある程度は理解できます。

で、また話を戻すと、解決の糸口さえ見えないほど混乱しているのが悩みなのですよ。

そう考えると、20代は悩みの連続でしたし、30から35までは、地獄の日々でした。

35あたりから、いくぶん楽に生きられるようにはなりましたが、その後、50にして壮絶な悩みを経験し、53歳までの3年間で、頭と心をフル回転させて苦しみ抜きました。

その経験のあと、父の介護が始まり、介護離職を経験し、経済的な問題も克服し(これは現在進行形で克服中)、 昨年は母を亡くし、今に至っています。

つまり、課題はいくつかあるのですが、それは悩みではありません。なぜならば、何をどう対処すればいいかがわかっているからです。

たとえば、お金がないなら働けばいい、のです。仕事がなかなか見つからないならば、自分の要求するハードルを下げればいい、つまり、仕事を選ばずに働く、ことが解決策になります。

メタボならば、運動すればいいし食事を工夫すればいいわけです。

部屋が散らかっているならば、断捨離してスッキリすればいい、のです。

つまり、解決する方法がわかっているものは、悩みではありません。それは課題であり、やるかやらないか、の話です。

その課題に対して、やるのも自分なら、やらないのも自分です。悩みではなく、課題であるとわかれば、それにどう取り組むかは自分次第、ということになります。

僕は自分の課題を知り、それに対し前向きに取り組んでいるので、毎日幸せに生きています。それは、自分次第で幸せに生きられることを皮膚感覚で知っているからでもあります。

幸不幸のキャスティングボートを、他人に握らせてはいけません。

自分自身の人生のハンドルは、自分が握っていなければいけません。

僕が今日も幸せなのは、自分の人生のハンドルを自分自身が握っているからです。

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