ねたみというものは、他者との比較の中から生まれます。他者と比較し、ねたむ気持ちを持つところまでは、仕方がありません。これは、人間としてのごく自然の感情だからです。
問題はそのあとです。そのねたみを引き摺るようになったら、それは不幸の始まりです。
ねたみを引き摺ることの実害
バートランド・ラッセルは、彼の著書、幸福論の中で、「ねたみによって、われとわが身をも不幸にしている。自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出している」と言っています。
まさにねたみによって、僕たちは、他人が持っているものから苦しみを引き出すのですから、愚かと言うしかありません。ねたんでいる時間は、無駄であるだけでなく、つまらない思いをするだけ損な時間の使い方です。さらに言えば、健康にも悪いでしょう。
ねたみによって、自分が欲しいものを知る
ねたみというものは、瞬間的に生じるものなので、生じることをも否定するのは、不自然です。ねたんでもいいので、そのあとの対処の仕方を工夫する必要があります。
それには、ねたむという行為が生じる際のパターンを知っておくことだと思います。
大谷がどれほど速い球を投げても、野球ファンは称賛こそすれ、ねたむことはありません。ねたむ者がいるとすれば、プロ野球のピッチャーなど、同じ土俵で戦っている人ですね。
自分の身に置き換えて考えてみる
これを自分の身に置き換えて考えてみると、僕がねたむ相手は、僕が欲しい能力を持っている者、僕が欲しい実績を上げている者、僕が欲しいモノを所有している者、など、常にそこには、「自分」もしくは「自我」が関わっています。
つまり、ねたみを感じたときは、自分の欲しいものを明確に知るチャンスなのかもしれません。
何ごとも、自分というものを明確に知ることから始まりますからね。
そして、ありのままの自分を知ったときから、本当の人生と言うと大げさですが、少なくとも自覚的な人生が始まるのではないでしょうか。ねたみを通して自分を知ることで、そのねたみを引き摺るのではなく、人生のヒントやチャンスに変えていくことが可能になるように思います。
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