あれが欲しい、これが欲しい、というのが執着であることは、誰にとってもわかりやすい話です。
また、ああなりたい、こうなりたいが、執着であることも、わかりやすいです。
しかし、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようも、実を言えば、形を変えた執着です。いわば、心配執着ですね。
心配執着にとらわれがちな現代人
そうなって欲しくないという、逆の執着が、自分を苦しめることがあります。これは、現代人には多いように思います。
老後が心配で心配で、も、心配執着です。
うちの子が、志望校に入れるかしら、と悩むのも、心配執着です。
オリンピックなどでも、これはあるのではないでしょうか。メダル候補と言われているのに、取れなかったらどうしよう、とかね。
一般的に人は、取り越し苦労をするものです。消費が伸び悩んでいるのも、その一つには、将来への不安があるからです。週刊誌なども、不安な記事を書けば売れると思っているフシがあります。
すべては需要と供給のバランスで成り立っているので、仮に国民すべてが楽天家になって、不安な記事の需要が落ちれば、週刊誌も明るい記事を書くようになるでしょう。
心配事の大半は実体のない幻
僕自身も、妻もなく、子供もいないので、独居老人は、決定事項です。今更、結婚する確率は低いし、その気もありません。
これを心配し始めると、キリがありません。そういうときの打開策は、「まあ、それもいいかな」と思うことです。
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気を楽に持つ、手放す、おおらかになると、本当に楽になります。楽になると、想像上の幻に怯えていたことがわかります。
でもまた、人間というものは不安になるんですね。そしてまた、気を取り直したり、打開策を考えたりします。
そうしたことを繰り返すうちに、少しずつ、気づきを得て、前よりはいくらか賢くなったりします。強くなったり、おおらかになったり、寛容になったりします。
そんなふうにして、日々が過ぎていくのだと思いますが、心配事の大半は実体のない幻なのだと、僕は思っています。まあ、60近くまで生きてきた、実感ですね。