僕などはもう60歳を過ぎているので、人生の残り時間を考えざるを得ません。
そうしたときに思うのは、人生を終えるときに、どう思うだろう、ということ。
それはなにも、人生最後のときでなくても、今、この時でも、ヒントはあります。
たとえば、サラリーマンであれば、ときどき訪れる長期休暇、年末年始とか夏休みなどのときに、休みが終わったときに、どう思うかで、それをヒントにすることができます。
何かしら価値のあることをしたときは、充実感があります。
その価値のあることとは、世間の評価とは関係ありません。
あくまでも、自分の中で、価値を感じられるか否かが重要。
で、価値を感じられない、あるいは、何も思い出せないときというのは、惰性でダラダラと生きた時間ではないでしょうか。
惰性で食べているポテトチップ、ダラダラと見ているテレビ、惰性で付き合っている大して楽しくもない人間関係、など、実に締まりのない時間です。
そうした、ダラダラと過ごした時間は、気だるさしか残しません。
それと、もったいないことをしたという、心がチクリと痛む後悔。
ダラダラ習慣は、人生を停滞させます。
死ぬときに、何をした人生なのかよくわからない、となっては、後の祭り。
ただ、普段忙しくしている人が、たまの休日にダラダラと過ごすのは、これは大いに大切なことです。
そうしたダラダラは、リラックスであり、心の休息になりますからね。
僕が戒めているダラダラは、際限のないダラダラのこと。

惰性に流されているダラダラのことです。
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