飢え死にすることがなかったのは、親のおかげ

父は、4年前に自宅でなくなり、母は、一昨年病院で亡くなりました。

そして僕の実母は、僕が16のときに、亡くなりました。

で、これは結果論ですが、失敗の多かった僕の人生で、親に恵まれたことだけは、ラッキーだったと思っています。世の中には毒親も多いと聞きますからね。

父は、寛容な放任主義、母は、再婚でしたから、義理の息子に多少は遠慮していて、そのうち、実の親子のように何でも言い合えるようになったのですが、それでも、僕に対しては父同様に寛容だったと思います。

この、寛容、というのが、僕には、合っていたわけです。

無職の時期も長かったのですが、親が寛容であったから、野垂れ死にすることなく、気楽に生きてこれました。

で、そのような良い親であったから、介護も抵抗なくできましたし、最後まで幸せな親子関係でした。

これはひたすら、自分が親に恵まれていたから、こうなった話で、毒親だったら、僕のような根性なしは、野垂れ死にしていた可能性があると、今でも思っています。

そのくらい、若い頃、35歳までの僕は、職を転々としていましたからね。

飢え死にすることがなかったのは、親のおかげ以外の何物でもありません。

この人生で、もっとも魂修行しやすい親を選んで産まれてくるという話もありますが、僕の場合は、それをすんなり受け入れられますが、毒親に苦しんでいる人に、そんなことを言ったら、張り倒される可能性もあるし、お前に何がわかる、とか言われるでしょうね。

ぼくは、そうしたスピリチュアルな考えはある程度容認できますが、世の中には実にいろいろな人がいて、いろいろな人生を生きているので、あまりワンパターンな世界観と言うか、人生観を持つべきではない、というのが今の僕の立場です。

一つの世界観の中で安住するのは楽は楽なのですが、それだと、多様性というダイナミズムは失われますね。

たとえばクリスチャンの人には申し訳ないのですが、彼らを見ていると、世界観が狭いなあ、息苦しくないのかなあ、と思ってしまいます。特に聖書に固執しているバブテスト派などは、そう思います。

話が横にそれましたが、良い親に恵まれた僕はひたすらラッキーで、あとは、ゆるやかに僕自身が衰え、西行法師のように、桜の咲く時期にでも死ねたら、本望です。

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