運命についての、僕の考え方

運命についての今現在の、僕のおおよその考え方では、生まれてくる前にある程度の人生計画は立ててくるが、生まれた後はいろいろな要素が絡んでくるので、そうそう計画通りに行かないこともあるし、概ね計画通りに進むこともあるという、不確定要素もかなりある、みたいな、考え方をしています。

たとえば、シルバーバーチなども、こうした質問は、降霊会で受けていて、だいたいは決めてあるが、そう細かなところまでは決めていないという、自由意思を尊重したものだったように思います。

僕は、シルバーバーチの教えであっても、はいそうですか、と簡単には納得しないので、一応自分で吟味します。まあそれは、何人かの教祖を妄信した過去の反省から来ているのですが。

で、今働いている僕のアルバイト先での面接のとき、工場側の課長と係長に初めて会ったのにもかかわらず、何とも言えない親しみのようなものを感じました。

何となく、昔から知っている人のように思えるのです。

どの時代かは明確にはわかりませんが、戦国時代かなあ、同じ藩にいて、ともに、外敵と戦った仲間のような感覚です。これは、ちょっと説明が難しい感覚ですね。

で、僕はいくつかの宗教団体を経験しているのですが、どうも僕は、それぞれの団体に所属すべきだった運命のようなものを感じます。

そして、それぞれの団体で、それぞれ学ぶべきこと、体験すべきことがあったのだ、ということを感じています。

だから、僕がかつて所属していた3つの団体について、恨み心はまったくありません。

つまり、その時の僕にとって、それぞれの団体は、僕の導き手であった、と思うのですよ。

それゆえに僕は、ダスカロスの言葉、「自分の人生こそが自分のグル【導き手】なのです」が、とても得心が行ったのですね。

その時々で、必要なグル、つまり導き手は、変わるのではないか、ということです。たとえそれが後になってカルト宗教であったとわかったとしても、そのときの自分には大切な教えであったわけです。

僕は、統一協会においても、幸福の科学においても、あるいは、幼少期から父の影響で信者になった、世界救世教においても、光体験というべきものを経験しています。

シルバーバーチが、ラベルを選ばずに指導する、と言っていることもうなずけます。

彼の言うラベルとは、共産主義などの主義主張や、民族、あるいは宗教団体、など、レッテルを張られたもののことです。

多くの人は、レッテルで人を判断します。まあ、そのほうが考えなくて済むし、楽ですからね。

たとえば、彼は共産党だから何々だ、彼女は在日だから何々だ、あいつは中卒だから何々だ、その人はオウムにいたから何々だ、みたいに、安易に判断を下し、レッテルを張って分類します。

しかし、レッテルを張られる前に、まずは、どの人も、一人の人間です。

その人間を見ずして、安易に人を決めつけるのは如何なものかと、昔から思っていました。

ただ、思い込みの強い人間には何を言っても喧嘩になるだけなので、僕はよほどのことがない限り静観していますが。

さて、僕の考えも固定したものではなく、今後も変化していくと思われますが、運命というモノは、大筋において、だいたい決まっているように、思っています。

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