多くの人が求めているのは、救い、だと思う

今は、コロナの影響もあり、多くの人が求めているのは、救いだと思います。

ところが、巷にあふれているのは、救いを表看板にした強欲な宗教屋ばかりです。彼らは宗教屋であって、宗教家ではありません。

はじめは宗教家であったのかもしれませんが、だんだん自分が偉いと思うようになり、実際に教団内で神様扱いされるうちに、ますます自己洗脳に拍車がかかり、次第に裸の王様のようになっていきます。

自分に対し意見をしてくる者は排除し、場合によっては、悪魔認定して、遠ざけるだけでなく、偏執的なまでに袋叩きにします。歯止めの効かないエゴが暴走を始めても、教祖である彼を、誰も止められません。下手に進言などしたら、今度は自分に矛先が向かってくることがわかるため、次第に、教祖の機嫌をとるようになっていきます。

こうなってくると、ますます教祖の側近にいるのはイエスマンばかりとなり、あるいは、その側近は女性ばかりが増え、本当に信仰心の熱い情熱ある職員は苦しい選択を迫られます。自分を犠牲にして真実を言うか、口を噤んで保身に走るか、です。

もとより、教祖を妄信している能天気な職員には、そのような葛藤は生じません。教祖の言うことがすべて正しいと妄信しているので、葛藤など起こりようがないのです。それはある意味、この上なく楽なのです。

ただ、どのレベルで疑問を覚え、葛藤が始まるかは個人差があるので、何とも言えませんが、さすがに教祖が明らかに反社会的な行動を指示するようになったら、大半の職員はおかしいと思うのではないでしょうか。

しかし、オウム真理教の例もあり、日本のみならず、世界を見渡せば、破壊的カルトというのは、現に存在していますから、妄信者ほど恐ろしいものはありません。しかも、本人は、正しいことをしていると、信じ切っているのですから、もはやつける薬はないというべきでしょう。

さて、こうした話をしているときりがないので、結論を言うと、いかなる宗教組織にも、本当の意味であなたを救済する力はない、というのが、僕の意見です。

あなたを救済するのは、宗教組織ではありません。

あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。

もともと仏陀とは、目覚めた人、という意味ですからね。

仏陀になる、と思う必要はありません。

少しだけ目が開けばいい、のですから。

それだけで、かなり、楽になります。

お布施も献金も要りません。

お布施や献金の向かう先はどこですか。

あなたの所属する宗教組織です。

その宗教組織は、清らかですか。穢れてはいませんか。詭弁を弄して、あの手この手であなたからお金を取ろうとしていませんか。

仏教には、三輪清浄という教えがあります。

これは、「布施というのは、施者・受者・施物の三輪(さんりん)が清浄(しょうじょう)であり、空寂となっていなければならない」
ということです。

つまり、受者、この場合は教祖、あるいは、その宗教団体、になりますが、これが穢れた存在であってはいけないのです。

そもそも、お布施で生活する人には、一般の人以上に、倫理観を求められるのは当然でしょう。その受者が、言動をころころ変えたり、すべてを人のせいにして独善的な立場に固執するとしたら、清浄どころの話ではありません。普通の人、凡人以下です。

僕が知る限り、あらゆるカルト宗教の教祖は頭がいいです。無駄に頭がいい、と言っておきましょう。

しかし、本当の意味での知恵はありません。なぜなら、因果の理法はくらませないからです。因果の理法、わかりやすく言えば、原因と結果の法則、です。

たかだか数十年のこの世の偽りの栄光のために、最も大切なものを失うからです。イエスも、「全世界をもうけても、あなた自身を失うとしたら、何の益があろう」と言っているように、カルト教祖の来世は、憐れなものにならざるを得ません。

しかし、ひとたび教祖という特権的な立場を手に入れてしまうと、その神の座は手放しがたいのでしょう。

ただ、これだけは言っておきます。

あなたを神とあがめているのは、一部の取り巻きとその信者だけですよ、と。その狭い世界で猿山の猿になっているだけですよ、と。

世間を舐めてはいけません。

この世間の中にこそ、実は知恵ある者、質実に生きながら真面目に暮らしている多くの善男善女がいるのです。教祖であるあなたは、彼らを救済すべき憐れなる者と見下しているかもしれません。

しかしあなたが本当に悟っているならば、人を見下すことは絶対にありません。なぜなら、すべての人に仏性が宿っていることがわかるからです。

相手の仏性が見える人間は、相手を尊重するようになります。決して、見下すような態度にはなりません。

宗教的指導者の役割は、相手がその仏性に気づくように手伝うことだけです。それ以外にやるべきことはありません。

まかり間違っても、自分を拝ませたり、自分の像を作って、それを売りつけることではありません。また、信者同士の自己顕示欲を刺激して、お布施や献金の額を競わせることでもありません。

あなたが真に神であるならば、存在するだけで感化力があるはずです。

あなたの周りに立ち現れる現象は、決して魔が競い立っているのではなく、あなたの言動が招いた因果応報の結果です。

少し、教祖に対する問いかけから離れましょう。

どのカルト宗教の教祖も、もはや救いようのないほどエゴ性が強いので(だからこそ教祖になれたのかもしれませんが)、彼らには、いかなる問いかけも徒労に終わるのですが、今日はあえて、試みてみました。

さて、我のかたまりの、エゴの権化たる教祖は放っておいて、大切なことは、苦しんでいる人が楽になる方法です。

それは、真実の霊的知識を得ること、です。

たとえば、シルバーバーチの霊訓などは、僕が最も信頼を寄せているものです。他には、アラン・カルデックやモーゼスなどがいますが、そうした外部チェックが厳しい中を潜り抜けてきた霊訓には、共通した真実性があります。

ここで言う外部チェックとは、その霊の発言の正邪を判断する審神者のようなものです。

シルバーバーチの霊訓などは、毒舌と率直で辛辣な批評家であり、当時もっとも懐疑的だったジャーナリスト、ハンネン・スワッハーが、これでもかと吟味した後に本物であるとして自らホームサークルを主宰して自宅で降霊会を開き、その人脈を生かして、各界の著名人を招待したほどです。

そして招待された人たちは、最初は懐疑的だった人も、シルバーバーチの説く霊的真理の一貫性や、その誠実さ、謙虚さに感化を受け、死後の生活に確信を持つに至りました。

ただ、漠然と神を信じるよりも、真実の霊的知識に基づいた実感を伴った信仰のほうが盤石であることは言うまでもありません。

このことは、イエスも、

「『そこで,わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆,岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家を襲っても,倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆,砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家に襲いかかると,倒れて,その倒れ方がひどかった。』
 イエスがこれらの言葉を語り終えられると,群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく,権威ある者としてお教えになったからである。」

と、マタイによる福音書の中で、述べています。

確かに宗教組織も、悟りに至る一つの段階として機能する場合もあり得ます。ですから、もしあなたが、どこかの団体に所属していて、その信仰で満足しているのならば、その信仰を続けるのも良いでしょう。

ただ、いずれ、その団体に嫌気がさしたり、活動がきついと思ったり、矛盾を感じたりして、その組織を離れようとしたときに、その組織はあなたを、離れたらサタンの側につくことになるとか言って、いろいろな形で暗に離れないように仕向けるかもしれません。

事実、サタンという名前ほど、さまざまな宗教組織の支配者にとって、便利な言葉はありません。

しかし、シルバーバーチの霊訓をはじめとした真実の霊的知識を得ることで、彼らの脅しは、何の効力もなくなる、のです。

さて、先ほど僕は、

「あなたを救済するのは、あなた自身です。

いや、あなたしか、あなたを救済することはできません。

しかも、お金は一円もかかりません。

あなたが目覚めればいいだけの話です。」

と言いました。

スピリチュアリズム普及会、というのがあり、これは宗教団体でもなく、自発的なサークルだと思いますが(僕自身も、このグループの誰とも面識はありません)、まったくの善意で(これこそがシルバーバーチの教えにかなうことだからでしょうが)、押さえるべき基本的な霊的知識のすべてを無料公開しています。

紙の媒体、すなわち本が欲しければ買うこともできますし、訳の分からないものにお金を使いたくないと思えば、無料で、そのサイトで公開されている霊的知識を自分のペースで学んでいけば良いのではないかと思います。

特に初心者におすすめなのは、500に及ぶあの世からの現地報告、ではないかと思います。

死は永遠の別れではない、とわかれば、とても気持ちが楽になりますからね。

勿論、巷の既成宗教やカルト宗教でも、死後の世界を教えていますが、でたらめなものが多かったり、教祖の独善的な解釈であったりします。さらに、その教えの対価としてお金を要求してきます。

特にカルト宗教は、美辞麗句で飾りながら、その本質はどこまで行っても金・金・金、なのです。

一方、宗教組織ではないサークルは、自発的に行っているもので、営利団体ではありません。

聖書にも、『ただで受けたのだから、ただで与えなさい』(マタイ10:8)とあるように、シルバーバーチの霊訓も、シルバーバーチが、幾多の困難を乗り越えて、無償で届けた宝物です。

ですから、この種のサークルは、非営利団体であるべきなのです。

彼らは、神の道具としての役割に霊的な喜びを感じて行っているだけで、見返りなどは求めません。あなたが気づき、幸せになってくれれば、それで良しとしています。

しかも直接にはかかわらないので、あなたが喜ぶ姿すら知りません。まあ、存在の愛、に近いかもしれません。

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