齢60を超えてからは特に、なりたい自分になりつつあるのを、感じています。
これは、聖書的に言うと、求めよさらば与えられん、を、地で行く感じ。
一方、仏教には、求不得苦、という教えがあります。
これは、求めても得られない苦しみ、のこと。
イエスも釈尊も、どちらも覚者ですが、切り口が違うと、一見、矛盾した教えのようにも見えます。
しかし、イエスの教えも釈尊の教えも、どちらも真実。

さて、僕が、最近とみに感じるのは、今生きているこの人生は、まさに自分の求めているものだ、という実感。
つまりこれは、僕の人生そのものが、僕を導いてきた証しでもあります。
この喜び。
だからこそ僕は、過去にかかわりのあった統一協会も幸福の科学も、その誤りを明確に理路整然とわかりながらも、そこを通るべくして通ったのだという必然性もまた、理解できるのです。
で、僕は、僕の人生を慈しむがゆえに、その通ってきた道をも、慈しみの目で見ることができるのです。
その道を通らなければ、今の僕という存在にまで導かれることはなかったからです。
今の僕という存在が、幸福そのものである理由の一つが、その道、その道程に、あるからなのです。
その道のりがあって初めて、一見矛盾するイエスや釈尊の教えの奥にある真実が見えるのです。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるのだ。」
クリスチャンにも仏教徒にも、ムスリムにも、無神論者にも、そのようなラベルに関係なく、平安への道は、今、ここに、生きている人であれば、誰にでも、開かれています。
思考の中で生きるのではなく、今ここに存在することに徹すること、で、根源なるものにつながる、と、言い換えることもできるでしょうね。
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