静かさの中の平安

 原始仏教経典の中にある釈迦の詩を読んでいて、感じたことがあるので、記してみます。

「あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」

「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」

「朋友、親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」

「林の中で縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め」

「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねに人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め」

「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」

 愛情や親しみといった、一般的には良いとされるものでも、釈迦的には、「苦」になってしまうのでしょうか。

「何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく」というのはいいですね。このようにありたいものです。

「他人に従属しない独立自由を目指して」も、目指すところです。もう過去のことではありますが、長年カルト教団に搾取されていた身としては、身に染みる言葉です。

「子を欲するな、友を欲するな」というのは、何と強烈な言葉かと思います。

 数か月間、迷惑メールが止まらないアドレスを、閉じるに際し、何人かにメルアド変更のお知らせを出したのですが、いくつかは返事がありませんでした。自然に疎遠になっていくものは、成り行きに任せたほうがいいと思い、そのままにしてあります。

 僕は会社依存型の人間ではなかったので、会社以外での交友関係がそれなりにあるのですが、会社一辺倒の人は、退職すると同時に大半の人間関係が消滅してしまうらしいです。

 去る者は日日に疎しで、介護離職後は、11年間勤めたホテルでの人間関係も、一人を除いて希薄となりました。

 人はだれでも時に押し流され、バラバラになって、一人で死んでいきます。

 もともと一人で生まれてきたのですから、一人で死んでいくのは道理です。昔の中国の皇帝のように、自分が死ぬときに道連れを強要できる人は、今の時代ではいかなる権力者であってもいないでしょう。

 孤独を受け入れなければ、真実に向き合うことはできません。

 愛する人がいても、それが愛着となれば苦に転化します。愛する人や物に対しても、執着したら苦となります。しかし、執着のない人などいないでしょう。立派なことを言う宗教家が、実は最も執着が強かった例を何度も見てきました。

 執着が全くない人はいませんが、少ない人はいます。そうした人は市井の中でひっそりと暮らしています。誰に知られることもなく、自己顕示欲も少なく、静かにしています。

 そしてその静かさの中に、平安を感じているのかもしれません。

スポンサードリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする