平凡な倹しい生活の中に喜びを

無明という言葉があります。無明とは、灯りがない状態のことを言いますが、人生においても、ときどきそのような人を見かけます。

その人が無明か否かは、性別も知能指数も年齢も、一切関係がありません。いい例が、昨年姉を殺し、自らも自殺したところの、富岡八幡宮の元宮司ですね。あれなどは、無明の極みです。

あの事件が際立つのは、無明の本人がその辺にいるゴロツキではなく、聖職者であった点です。職業や役職などというものが、本人の悟りといかに関係がないかを示す格好の材料ではないでしょうか。

心に光がないと、刺激を求めたくなる

殺人とまでは行かなくても、無明を感じさせる人はそれなりにいるように思います。たとえば、ギャンブルなどで生活を破綻させる人がいます。

そうした人たちも無明でしょう。周りの人間にも迷惑をかけますが、実は無明である本人が一番苦しいはずです。

心に光がないから、ギャンブルなどの刺激を求めるのです。賭博行為の中毒者や薬物中毒者の無明は、やり場のない自分からの逃避である場合があります。

小さな無明もある

実は、普通に働いてきて定年退職を迎え、傍から見たら普通の人でも、無明を抱えている場合があります。それは主に、会社に染まりすぎて、その価値観でしか生きてこなかった人に見受けられます。

この無明は邪悪でもなく、重症でもありませんが、やることがないと、妻の充実した私生活に対してやっかみを持つ場合があります。妻がカルチャーセンターに行ったり、友人とランチに行ったりすると、嫌みの一つも言うのですね。

これなども小さな無明です。自分の中に光がないから、自分で自分の心の経営ができないのです。仕事ばかりしてきて、他に目を向けなかったのかもしれません。

介護離職したのちの僕の生活

多くの人は、まともに仕事をしながら、私生活もないがしろにせず、したがって退職後も、無明でなく生きています。そうした人たちの心には、個人差はあるものの平安があるでしょう。

僕自身は、仕事人生では大きな成功も成果もありませんでしたが、介護離職したのちも、平凡な倹しい生活の中に喜びを感じています。それは、心の中に光があるからです。

心に光があれば、平凡をこそ喜び、質素な生活をこそ喜ぶことができます。これはまことに有難い話で、このような心境で生きられるように導いてくれた存在に感謝しています。

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