それに辻褄の合う理由をでっち上げただけ

他者のブログを読んで気づかされることがあり、今日は、そんな話。

僕は時々、ネットサーフィンをして、いろいろな人のブログを見て、いろいろな生活や考え方、などを知ることを楽しみとしています。

するとときどき、とても、心をとらえる、今風に言うと、刺さる、内容に出くわすことがあります。

以下などは、その一例。

僕らの感情は、その時の自分のコンディションと外部からの刺激によって、反射的に決定されているにすぎない。そこに自らの意図、ましてや論理的思考が入り込む余地はなさそうだ。
僕らにできるとすれば、感情が生まれたことに一早く気づき、それに執着しないようにすることだけ。
そうすれば反射的感情に翻弄されることは少なくなるし、フィルターを通さずに見ることができる分、より本質的に物事をとらえることができるようになる・・・らしい。
それを釈尊は「智慧」と読んだ。

そのような発見には本来ならある程度の期間、瞑想に取り組む必要があるとされてきた。
しかし昨今、釈尊の説いた内容を裏付けるような科学的知見が増えてきている。
それらを通じて、短い瞑想期間で効率的に、場合によっては瞑想なしで学習だけでも、原始仏教的な「智慧」に近いものを得られると僕は考えている。

最後に僕からの質問。一旦読むのを止めて、真面目に考えてから読み進めて欲しい。
この記事の内容について、おもしろいと思っただろうか? あるいは、くだらないと思っただろうか? そしてその理由は?

答えはどちらでもいい。僕が今あなたに問いかけたいのは、「その答えは本当にあなた自身の意識から出たものですか?」ということだ。そして理由は本当に答えを導いたのか? まず答えがあって、それに辻褄の合う理由をでっち上げただけではないのか

太字の部分だけは僕が強調し、この記事のタイトルとしてお借りした部分。

実は僕自身、思い当たる節があり、まず結論があって、その結論に行きつくために有利な情報のみを搔き集める、というか、そんなことがあります。

また、感情というものの生起にも触れていますが、感情こそが自分、と思っている人には、気づきの機会が与えられるかもしれません。

感情って、そんなに確固としたものなのだろうか、という疑問が生じたら、気づきのチャンス。

これからも、僕のネットサーフィンは続きます。

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