なぜ快楽はしだいに薄れるのか

ネットサーフィンをして優れた記事に出会うのはとても楽しいものです。

そしてそれが、自己の内省にも役立つのならばなおさらのこと。

ちょうど、快楽とは何だろう、と考えていた時に出会った記事が、以下のもの。

「なぜ快楽はしだいに薄れるのか」という命題について。ブッダは「人生は苦であり、それは欲があるからだ」と言っている。

ドーナッツが目の前にあればすぐにどんなにおいしいだろうと想像するが、食べた直後にどうしてももう一つ欲しくなるだろうことや、しばらくして糖分による高揚がおさまると軽い疲れやいらだちを覚えるだろうことは想像しない。
なぜ快楽はしだいに薄れるのか?
(中略)
基本の論理はこうだ。私たちは自然選択によって、祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立ったこと―食べる、セックスする、ほかの人の尊敬を得る、競争相手をだしぬくなど―をするように「設計」されている。(中略)もし遺伝子を拡散するのがうまい生物をつくりたいなら、どう設計すればそれにふさわしい目標を生物が追及するようになるだろう?(中略)理にかなった設計の基本方針が少なくとも3つありそうだ。


1.こうした目標を達成することで、快楽が得られなければならない。なぜなら、人間をはじめ動物は、快楽をもたらすものごとを追及する傾向があるからだ。

2.快楽は永遠につづいてはならない。快楽がおさまらなければ、ふたたび快楽を求めることはない。はじめての食事が最後の食事ということになる。二度と飢えがもどってこないからだ。セックスも同じで、一度の交わりのあと一生そこに横たわって余韻にひたっているのは、つぎの世代に大量の遺伝子を伝えるための正しい方法とはいえない。

3.動物の脳は、1の「快楽は目標に付随して起こる」ことに集中するべきで、2の「快楽はそのあとすぐ消失する」ことにあまり集中してはならない。1に集中すれば、食べものやセックスや社会的地位などをまじりけなしの純粋な熱意で追及するだろうが、2に集中すると、矛盾した感情が生まれるおそれがある。たとえば、快楽を手にしたとたんそれがすぐに消えてしまい、もっと欲しいという渇望が残るのなら、そこまで必死になって快楽を追求してなんになるだろう、と考えはじめるかもしれない。そのうち、ものうい気分が高じて哲学を専攻すればよかったと思いかねない。

以上3つの設計方針を組み合わせると、ブッダが解き明かした人間の苦しみをかなり納得のいく形で説明できる。たしかに、ブッダの言うとおり快楽は一瞬で消えうせる。そして、たしかに、ふたたび不満が残る。快楽がすみやかに消えるように設計されている理由は、つづいて起こる不満によって私たちにさらなる快楽を追求させるためだ。しょせん、自然選択は私たちが幸せになることを「望んで」はいない。ただ私たちが多産であることを「望んで」いるだけだ。そして、私たちを多産にする方法は、快楽への期待を狂おしいものにしつつ、快楽そのものは長くつづかないようにすることだ。

すべての根底にあるのは幸せの妄想だ。ブッダが強調したとおり、よりより気分になろうとがんばっているあいだは、「よりよい」気分でいられるだろう時間を過大に見積もってしまいがちだ。そのうえ、「よりよい」が終われば、あとには「より悪い」がつづくこともある。いらいらと落ち着かず、もっと欲しくなる。心理学者が快楽のランニングマシンについて記述しはじめるよりずっと前に、ブッダにはそれが見えていた。

数年前、それなりに高収入であった開業医の職を捨てる踏ん切りがついた。お金で買えるような喜びの先に、たいした幸福はないだろうと考えている。

この方は開業医だったようで、そうした高収入であった人が言うと、説得力があります。

仏陀釈尊も、もとは王子で、快楽に耽る生活に嫌気がさしての出家ですから、これもまた、快楽の先には幸福はないことを示唆しているのかもしれません。

スポンサードリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする