僕も、孤独です。
そして多分、これを読んでいる人も孤独なのかもしれません。
たぶん人類全員が孤独であり、
同時に何かでつながっている、
という感じでしょうか。
孤独だからこそ、小さな自分を何かに仮託して、
一体感を求めているのかもしれません。
戦争中の、靖国で会おう、という言葉も、この命は国のために捧げるが、
より大きなもののために散る命、だと思って死んで行ったのかもしれません。
僕は、3つの宗教団体を経験していますが、程度の違いこそあれ、
やはりその団体の教え、さらに言えばその教祖に、より上位の仮託先を見出し、
それを、信仰という言葉で糊塗して、安心していたのだと思います。
確かにそれは、一時的な安心を得られはしますが、
様々な矛盾や自家撞着には蓋をしたままの状態で、
真の安心立命ではありませんでした。
今は、特定の団体に属すとかいうことはなく、
宇宙意識とでも言うほかはない、法則によって統べる神、
まあ、それを神と呼べばの話ですが、
そのような存在としての神への信仰はあります。

おそらく僕が、何とか孤独と付き合っていけるのは、
今、親から貰った名前で生きているこの自分以上の、
より本質的な自分、自己は、この肉体の死後も不滅であり、
本来的な意味では死ぬことのない存在であることを、
信じている、
あるいは、
信じようとしているから、
なのかもしれません。
その必然として、この世は旅の途中であり、
主イエスの言葉、
「この世を旅する者であれ、この世のものとなるなかれ」が、
腑に落ちるのです。
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