職場で怒りをぶつけられたことからの考察

2年半に及ぶ両親の介護を終え、アルバイトとして入った職場で、一昨日、一人の先輩から罵声を浴びせられました。その詳細について話すと非常に長くなるので、これを客体化して考察してみることにします。

自分の見解への執着

見解、考え方への執着は「自分の見解、考え方が正しい」と思うことで生じます。僕が怒鳴られたときの例で考えると、その先輩は僕に対し、このように行動すべきだ、というものを持っていたのですね。

しかしそのときの僕の立場は、ある正当な理由から、その先輩が期待するような行動をとれない状況にあったのです。

その先輩の怒りは凄まじく、わずかな反論も許さない権幕でした。

そのため、僕はひとまず、謝罪する必要のない状況下で謝罪したのです。

時間をおいて、その先輩とまた顔を合わせたのですが、そのときはだいぶ冷静になっていて、さっきは怒鳴ってしまって悪かった、という謝罪を受けました。

かつて怒りっぽかった自分

先輩の尋常ではない怒りにあっけにとられていた僕ですが、そう言えば僕自身も、かつては怒りっぽかった時期があります。無意識ではあるのですが、たえず怒る対象を探していたような時期があったのですね。

まあ、ずいぶん若い頃の話ですが、そのような怒りは、仏教的には、貪瞋痴の三毒の、「瞋」(ジン)に当たります。難しい字ですが、このジンとは、激しい怒りのことです。

見解への執着を考察する

さて、見解への執着に戻って考察すると、その先輩は僕に対し、このように行動すべきであるという見解を持っていたのです。そして僕が、その彼の見解通りの行動をしなかったから激しく怒ったのですね。

そして同時に僕が、怒りをぶつけてもだいじょうぶな後輩であったからでもあります。これが、怒れない立場の相手であれば、彼は自分の見解に執着しながらも、怒りをぶつけることなく我慢したことでしょう。

仏教はさまざまな執着から離れるように教えていますが、この「自分の見解への執着」は、かなり最後まで残る執着のようです。

それは、わかるような気がします。人は、この「自分の見解への執着」に突き動かされて、経済的打算をぶん投げてまで行動することがあるからです。

この「自分の見解への執着」は、どんな人にも起こり得ます。たとえば、善意の革命家や非戦論者にも、当然のことながらこの執着はあります。いやむしろ、そのような正義感の強い人こそ、強く把持しているものがこの「自分の見解への執着」なのかもしれません。

また、この問題は、別の機会に、改めて考察してみたいと思います。

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