お金があまりなくても生きられることを知っている

僕は50歳までの人生で、お金をあまりにも粗雑に扱ってきました。

そのツケが今、出ているわけで、世間一般の同年代よりも持ち金は少ないのです。

猛省すると同時にカルト宗教も退会し、お金を大切に扱うようになっていきました。

大事に扱うようになってから、お金も少しずつですが僕になつくようになりました。

お金は、確かにこの人生を過不足なく乗り切るためには必要不可欠なものです。

しかし同時に、あまりにも多くの人々が、お金信仰に陥っていることも事実です。

信仰する相手が神ではなく、お金なのです。

それでも、かつての僕よりはかなり賢い。

僕はと言えば、神を騙る男に、大金を貢いでいたのですからね。

多くのカルト宗教の信者がそうであるように、実はお布施、あるいは献金、と言ったものは、それはそれで快感があるものなのですよ。

手放してすっきりする感覚です。

この辺りは、断捨離に似ているかもしれません。

で、いつもお金がない、貯金ゼロが当たり前で、いい年まで来てしまい、少しずつ経済の勉強なども始め、今に至っているわけですが、お金があまりなくても生きられることを知っているし、耐性が付いているので、根本において、お金に対しては楽観的になれるのです。

決して貧乏を肯定しているわけではないのですが、老後に必要なお金は3000万とか1億などという話を聞くと、違和感が甚だしいのです。

ここでちょっと逆説的な話をします。

お金は、持ちすぎると苦しみを生みます。

減らしたくない、という執着の苦しみ。

お金信仰に陥っていると、例えば旅行に行って楽しいはずなのに、それはお金が減るという苦しみを伴うので、心から楽しめなかったりします。

これなどは、お金信仰信者の特徴ですね。

さて、いくらお金を持っていても、死というゴールは確実にやってきます。

そのときに、心安らかに死ねるのは、実はあまりお金を持っていない人だったりします。

これは、容易に想像がつくのではないでしょうか。

ありすぎるお金が執着となって余計な苦しみを生みます。

紀州のドンファンも、仲の悪い兄弟に一円たりとも渡すまいと、執着したらしいです。

何が言いたいのかというと、人は死というゴールが決まっており、その死すら、いつ訪れるかわからないので、あまりお金を貯めても意味がないというか、むしろ苦しみの原因にすらなりかねないということなのです。

しかし同時に、この砂漠のような世をひと様に迷惑をかけずに生き抜いて行く程度のお金は持っていなければいけません。

それと、多少は人生を楽しむ程度の余裕があるくらいのお金を持っていればなお良いでしょう。

お金に関しては、その程度の執着でとどめておいたほうが良いように思っています。

ただ僕の場合は、あまりにもお金に頓着しない生活を送りすぎていたために、自戒の意味を込めて、お金に関する話を結構書いていますが、多くの賢い人には釈迦に説法でしょうから、聞き流してもらえれば幸いです。

僕自身、お金への配慮はほどほどにして、精神的自由を謳歌する生活へと意識を切り替えています。

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